夜にケーキを食べていい

 幸福をのむことは、不幸になることよりも覚悟がいることだ。

 これ、なんだっけ、岡崎京子?わかった、下妻物語だ。 

 不幸でいる方がよっぽど楽で、幸福な生活の隙間のどこかにほつれをさがして、大丈夫、怖くない、私はまだ不幸にだって慣れていると唱える。幸せな日常の映像に、大丈夫、こういうのはよくあるはずだと言い聞かせる、言い聞かせるけど、やっぱり、いまってかなりしあわせでとくべつ。こんなにも変わってほしくない、失いたくないと思う春がはじめてで戸惑う。好きな人がわたしの好きなものしかない部屋にいる春が訪れてしまった。spring、has、come、もっと強くなりたい。

 新しい春だから、毎春なにかしらを捨て去ってきたわけで、新しい春だから毎春ときめいた景色に苛立ってきたわけだけど。とてもおだやか、おだやかで目をみはってしまうほど。一歩進んで二歩下がるような大学生活に、駆け足で別れを告げた。

 

金曜日

 友人と好きな川沿いに泊まって、好きなお菓子屋さんのケーキを買って、好きなチャイティを飲んだ。わたしたちも、極まったものですね。夜、意味のわからない海外の料理番組をみながら寝た。友人はずっと可愛かった。

 

土曜日

 お昼、研究室の同期たちと会った。コストコのマフィンは半分でもういいかなと思った。みんなよりすこしはやく帰った、もう少し話していたかったけれど、そのくらいがちょうどいいんだった。

 夜、バイト先の憧れていた先輩と餃子を作った。てきぱきと仕事を捌くさまが好きだった。てきぱきと作られた餃子は、てきぱきと作られたなりにとてもおいしいものだった。

 

日曜日

 最後の日曜日のカネコアヤノのライブは、金沢からの手向けの花だと思うことにした。カネコアヤノは私の大学生活に寄り添ってきた、それは、どういうことかというと、カネコアヤノの言葉の端々、音のすみずみに、私の大学生活のやるせなさ、つまらなさ、眠れない夜、帰れない道、泣いた川、むかつく自分、そしてとびきり楽しい日々、愛しい人たち、恋しい街並み、不安、はかなさ、かけがえのなさ、それが反射して、ありありと住みついている、染みついているんだった。かわる、かわる、かわる、かわる、変わっていく景色をうけいれろ、屋根の色はじぶんできめる、美しいからぼくらは。私はもう大丈夫なんだという安堵と、傷ついて傷つけたこの街や人々ともとうとう離れなければならない不安、視界がゆがんで、それでもカネコアヤノはずっと光のなかにいた。帰りに、燦々のCDを買って、まっすぐに一人で自転車に乗って帰った。夜の金沢をこうして自転車で乗って帰るのが、私は好きだった。

 

月曜日

 大学生活で一番乗ったであろう友人の車を洗った。気分がよかった。ハンバーガーを食べたあとで、おなかいっぱいになりながら、悩みは誰だって適当にきいているんだから、なんだって話してみてもいいんじゃない、とそれとなく言われた。

 最後のバイト。今日最後なことを告げれば、きょとんとされてやめがいがあるものだなと思った。軽くゆるい関係にあった人間関係、どうもありがとう。ケーキやらハンカチやら大福やらをもらった。続けがいがあるもんだ。

 

火曜日・水曜日

 その瞬間において、私たちは確かに、永遠に友だちだ。3人のきらきらした笑顔や声があちこちに散らばった。やさしさに頭があがらなかった。いつかまた必ず会いましょう。日当たりの良い部屋で待ってるね、ミスタードーナツを買って帰ろう。

 

金曜日

 4年間のすべては、5袋のごみ袋と15個の段ボールに煩雑にかわいらしくおさまった。一時間もしないうちにあっという間にトラックに積み込まれていくのを、茫然と眺めていた。ホワイトボードに書かれた自分の名前は、除光液に浮いてすんなりと流れていった。

 金沢を離れた。もう帰る部屋はない。とびきり走りたい気分だった。金沢で起こったこと起こらなかったこと、全部を思い出したようで振り切りたかった。金沢での生活はこの先、何度も思い返すことになるでしょう、との父の手紙。金沢を学生時代を過ごした街としてとっておける。さよなら、お元気で、名前も顔もない街の人にあいさつした。金沢の女の子というタイトルで私のことを思い返す人がいることを思った、これは呪いだ。好きな人たちと離れて暮らすということは、いざというときにいっしょに死ねない可能性を高めていることなんだとわかった、これは祈りだ。

 

 次の街でも、どうかみなさん、変わらず愛しく。

 

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