なんでもない日々

 自分のTwitterを見返していたら、とにかく泣いてばかりで呆れた。泣くことが非日常的だからこそ、ツイートするのだろうけれど、それにしても泣きすぎだよ。どうにかしてくれ。

 今日、実は前から画策していた美術館に行くことをひとりで遂行した。住んでいるとこからはちょっと遠い街。大学の友人が住んでいるけれど、連絡しないつもりでいた。ひとりで美術館に行って、街を行ったり来たりしながら、喫茶店や本屋さんに気まぐれにはいる。いつかの東京ぶり、心持ちがしんとして、思考は思うままにすいすいと進んで、なかなかにいやされた。買い残したお店にふらっと立ち戻ったり、突然ベンチでぼーっと座ってみたり、閉館30分前にもう一度展示をみたりした。水が光の粒をもって流れていくのを、自転車でひとがのんびりと通り過ぎていくのを目に留めながら、わたしは学生時代の街からでてきてよかったと心の底から思った。もっと知らない街に行って知らないことを知りたい。若さだってそろそろすり減っちゃうんだから。

 ひとりで遠出するのはいつも、ライブがあるからだった。演奏する彼らはきらめいていて嬉しい。わたしはでもそちら側ではない、きらめけないことをそのたびに思い知らされて、悔しくて寂しいのだった。たくさんの人と音楽を聴いているのに、アーティストはわたしに歌いかけているのに。ライトがぐるぐるあてられて、余計にひとりなのが際立つんだ。

 あれからまた時間が経った。性懲りもなく、古本を買いあさっている。わたしは一人暮らしを春からはじめた。自分のお金で、自分の時間で、生きていかなくちゃならなくなった。毎日毎日働いていたらあなたの名前の漢字を忘れるなんてことはないけれど、明らかに心は窮屈になっていて、自分の器の小ささに辟易する。なにが苦しいのかわからなくて、むしろ苦しくないはずなのだけど、ドライヤーで髪を乾かしながら、洗濯機に背中を合わせて本を毎晩読んでいる。強くなれ、先輩の声は、ドライヤーでかき消してしまえ。ごめんなさい、とすぐ謝るくちぐせはいつのまにか母そっくりだ。わたしまだ22歳、わたしもう22歳だ。

 遠出した先の古本屋で母へ本を買った。わたしが小さい頃から、あなたはどこか知らない遠くの街でお母さんたちのことを忘れて生活をするんだろうね、と聞かされてきた。

 わたしもうずいぶん遠くまで来てしまって、だいたいは母の予想通りに進んだ、幸いにも。でも、お母さんの料理を思い出して、きゅうりと卵と豚の炒めものも手羽先のキムチ煮も作るし、パソコンで無機質に体を作動させながら、頭では緑豊かな登下校の道を反芻している。

 なんでもない、言い聞かせる日々を繰り返して、わたしは次の夏で23歳になる。ラブリーサマーちゃんはどうしたいの?って歌って、シャムキャッツ がこのままでいれたらいいねって、カネコアヤノは次の夏には好きな人連れて月までバカンスしたいって言う。わたしはもうわかってるはずだ。

 

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